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パラリンピック大会後の共生社会の在り方 ~失われたものを数えるな、残されたものを最大限に生かせ~

TOKYO2020 パラリンピック大会が9 月5 日に幕を閉じました。
オリンピックでは日本人の活躍でたくさんの感動をもらいましたが、
パラリンピックでは感動はもちろんのこと、更にプラスして想像力を感じることが出来ました。障がいに違いのある選手が、それぞれ体の活かせる部分を駆使して各競技に挑む姿は、まさに想像力を掻き立てられるものでした。
パラリンピックの大会ボランティアとして参加した私は、日々選手村で様々な障がいを持った人たちが健常者と混じり、行き交う光景を見ていました。障がい者は自分ができることを積極的に行い、健常者は自然に寄り添いサポートをする。この光景をみて、障がいが特別なものではなく、むしろ個性の一つと感じるようになり、最初違和感があった風景は次第に当たり前になりました。
1960 年、イギリスのストーク・マンデビル病院で、留学中の中村裕医師は衝撃を受けたと言います。障がい者とは「保護されるべき人」であり、ベッドで安静にしているもの、というのが日本での常識だった時代。中村医師が師事した“パラリンピックの父”と言われるルードウィッヒ・グットマン博士は、治療にスポーツを積極的に取り入れ、身体機能の強化と回復で高い成果を上げていました。
多くの患者は半年ほどで社会復帰を果たし、自分たちの生活へと戻っていきます。その生き生きとした表情は、人目を避けて暮らしがちな日本の障がい者とはまるで違っていたそうです。「失われたものを数えるな、残されたものを最大限に生かせ」。
中村医師がグットマン博士に学んだのは、その理念でした。
帰国後、中村医師は精力的に動きました。障がい者にスポーツなんて、と反対する人たちを根気よく説き伏せ、少しずつ賛同者を増やしていきます。64 年、悲願だった障がい者スポーツの世界大会が東京で開催され、選手宣誓に臨む車いすの男性の後ろには、選手団長を務める中村医師の晴れやかな顔がありました。この大会は、中村医師のその後にとっても予想外の影響を与えました。出場した欧米の障がい者アスリートの多くは、仕事や家庭を持ち人生を楽しんでいます。その姿を目の当たりにした日本人選手から、「自分たちも彼らのように自立したい」という切実な声が上がったのだそうです。これがきっかけとなり、中村医師は翌年、出身地の大分県別府市に社会福祉法人「太陽の家」を設立。
「保護より機会を」をモットーとして、以後、障がい者の働く場づくりに力を注いでいきました。
近年は障がい者スポーツ特有の面白さに気付き、「新しいスポーツ」として積極的に応援するファンも増えてきました。
TOKYO2020 大会でも、「車イスバスケ」や「車イスラグビー」、「ボッチャ」、「ゴールボール」、「5人制サッカー」など、いくつもの競技で選手の活躍に魅了されました。今や、リハビリや健康増進の手段としてスポーツに取り組むだけでなく、国際大会などの高いレベルで記録や勝利を目指す選手も少なくありません。
東京でパラリンピックを間近に見た私たちは、障がい者と健常者の社会の関わり方をフラットにし、共生できる社会を推し進める必要があります。「多様性と調和」、意識と目線を変えられる機会だと感じました。